日曜の朝 7:00 から ( わたしにとっては深夜みたいなもんですが ) 放映している、
「交響詩篇エウレカセブン」というアニメがあります。
カウボーイビバップや CASSHERN などの脚本を手掛けていたことでも知られる佐藤大さんがシリーズ構成を 手掛けているということを知り、追っかけになってしまいましたが夏ぐらいから毎週見るようになりました。
佐藤さんは、テクノレーベルのフロッグマンレコーズを立ち上げるなど ( もう 10 年以上昔の話ですが ) 、クラブミュージックシーンに深い関わりのある方。まだわたしが 10 代だったときには、佐藤さんのゲーム×テクノ・・・なんていうイベントに足を運んでいたりもしました ( そのとき、佐藤さんと格闘ゲームか何かで対決して負かされた記憶があります ( 笑 ))。
エウレカセブンについては、すでにさまざまな論評がなされています。
複数の手法でリアルタイムに番組を " 放送 " していくというマーケティング手法も、ポイントの 1 つです。テレビ放映だけでなく、 USEN/ 楽天資本によるブロードバンド動画ポータル「 Show Time 」でのリアルタイム配信や、ボーダフォンが運営する「 vodafonelive BB! 」でケータイ再生可能な番組をダウンロード配信するなどして、見事に私のような「日曜の朝には起きられない人」「番組放映後に興味を持って、過去の放映分を見逃してしまった人」を取り込むことに成功しています。このリアルタイム性は、 DVD やコミック化という従来の方式では出来ないことですよね。
でも、わたしがエウレカセブンに注目している理由はそれだけではありません。
わたしが興味を持っているのは、オマージュ満載のエウレカセブンにおける
「オリジナリティ」です。
そうしたものに対して、「オリジナリティなんてもうない」「パクッて、より良いものを作れば良いじゃないか」というのが 80 年代末から 90 年代の気分であり、唯一の処方箋だったように思います。
「ミクスチャー」なんていう言葉がありましたが、ようはすでにある物を自分のセンスで混ぜ込んで何かを作る...という作品がたくさん出てきましたし、わたし自身もそうしたものを好んで見聞きしていたように思います。アニメに喩えれば「エヴァンゲリオン」がそうなりますね。
エヴァンゲリオンには、当時の厭世的な気分とのリンクを感じます。監督が自分の情けなさをさらけ出す...というなかで、どれだけやっても結局は「過去の蓄積」の上にのっかたものでしかないという結末を迎えていったエヴァンゲリオンは、「どうせ俺なんてこの程度」「オリジナルはもう生めない」「ダメだなぁ俺」という共通理解で観客と繋がっていたように思えます。
「ダメだけど、これが好きで何が悪い」という感じですかね。
ですが、ここにきて「オリジナリティ」の定義が、送り手のなかで変容しつつあるように感じています。暴論かもしれませんが、「方法論にオリジナルを求めない」ということです。それをエウレカセブンから強く感じるのです。
エウレカセブンは、過去・現在の物語・ファッション・哲学・音楽など、さまざまな文化の集合体で出来ています。もちろんまだストーリーラインの全貌は見えませんが、設定や数々の前フリを見る限り、正面突破で堂々とガンダムやエヴァンゲリオンをパクッているともいえるでしょう。そしてテクノファン、ロックファンなら、「ヒューマン・ビヘイヴィア」「ハイアー・ザン・ザ・サン」「ヘルター・スケルター」「イル・コミュニケーション」「イントゥー・ザ・ネイチャー」などなど、毎回のタイトルが数々の名曲や名アルバムから引用されているのにも気づくはずです。また、ロボットは LFO と呼ばれていますが、これはイギリスのアーティストで以前ビョークのプロデューサーも勤めていたマーク・ベルがもつ 1 つの名義でもあり、シンセサイザーのいち機能でもあります。 KLF 小隊なんていうものも出てきますが、これはいうまでもなく The KLF のことです。
客席にマシンガン ( ニセ ) をぶっ放したり、ホテルのロビーに羊の死体を置いていったりと、数々の伝説 ? を残したあの KLF 。マーケティング的な側面もあるのでしょうが、ここまでそのまま引用されると、逆に驚きますよね。
しかし、エウレカセブンのクリエイティブチームに「オリジナリティ」がないのかといえば、もちろんそんなことはありません。実際番組を見てもらえればわかると思いますが、エウレカセブンには、作品全体に清々しくも凛とした独特の空気感があります。そして、芯の通ったぶれない視点を感じます。その視点がどこを見ているのかは、今後のお楽しみという状態ですけども。
これは、クリエイティブチームが、この作品で言いたいこと = メッセージをしっかりと核に持っており、けっして「エンターテイメントのためのエンターテイメントに終わらせない」という決意を持っているからこそ生まれた空気感だと思います。今夏放送されたドラマ「女王の教室」にも同じ臭いを感じましたし、現在放送中の「野ブタにプロデュース」にもタダでは終わらないという気概を感じます。
メッセージ ( コンセプト・中心 ) を自ら生み出すという部分にこそ、作り手のオリジナリティが求められるというのは当然なのですが、情報の少なかった時代では「オリジナリティのあるメッセージを伝えようとすれば、自ずと方法論もオリジナリティのあるものになりえる」という状況が故に、手法的な目新しさも次々と生み出されていったのではないでしょうか。
しかし、多数の作品が生まれ、蓄積され、閲覧されるようになった高度情報化時代 (80 年代~ 90 年代 ) には、さまざまなことがやり尽くされていくなかで、方法論のオリジナリティを見出せなくなったんだと思います。 そして、ネットの普及で、情報が無料かつ無尽蔵に流通している現在は、同じアイディアを同じタイミングで思いつく人が無数にいるという時代です。現在では、方法論におけるオリジナリティは、ほとんどの場合「過去の手法のカスタマイズ」にすぎません。そしてオリジナルの方法論は、いちはやく実現化すること以外に価値を持たなくなりました。
そうした環境の中で、作り手たちも受け手である我々も、「メッセージ」と「方法論」を分離して考えられるようになってきたのではとわたしは推測しています。自分の内から出てきたメッセージを人に伝えるために実現しようと努力することにこそ価値があり、そのメッセージを相手に最適な形で伝えるためであれば、すでにある方法論でも積極的に採用していく。そうした、考え方が共通理解として生まれてきているのではないでしょうか。
現在は、作り手の「オリジナリティ」を発揮しやすい時代でもあり、作り手にとってごまかしの効かない時代でもあるという、ある意味で健全な土壌なのだと思います。